星黎宮に戻った朱華は、にこやかな笑みの侍女に迎えられた。
「おかえりなさいませ、陶妃様。さぞお疲れになったでしょう」
「まあね。大姐は、どなたも手強かったから」
「炎俊様が労ってくださいますでしょう。庭園でお戻りを待たれていらっしゃいますわ」
轎子から降りる朱華に手を差し伸べてくれた、その侍女の名を、紫薇という。彼女よりもいくつか年上の、おっとりとした雰囲気の女だ。最初の朝に峯とやり合っていた者でもある。
「そうかしら? あいつにそんな気遣いがあるとは思えないわ……!」
「そのようなことは──陶妃様に再会なさるのを、とても楽しみにしていらっしゃいましたのに」
不敬な物言いをしてみても、紫薇のにこやかな笑顔は変わらない。まるで、朱華に仕えるのが喜ばしくて堪らないとでもいうかのよう。
(こういうところの侍女って、皇子様のお手付きを期待するものなんじゃないの?)
紫薇も、今日会った妃たちにまったく劣らず、整った顔立ちをしているのに。朱華が陶家の雪莉姫なんかではなく、身代わりの偽者に過ぎないともう知らされているはずなのに。
(この人にも話が通ってるから、私は星黎宮では素で話せるんだけど。よっぽど信用されてるのね……?)
紫薇は炎俊に秘密を握られているのか、それとも何か信用を勝ち取るための秘訣があるのか、朱華はまだ聞くことができないでいる。この侍女が、どんな経緯で彼に仕えているのかも。
「……こき使える駒ができるのが楽しみだったんでしょ? 私はそう思ってたわ」
「いいえ! 炎俊様があのように楽しそうになさっているのは、初めてみましたもの」
「本当……?」
和やかなようでいて、まだ気の抜けないやり取りをしながら、朱華は炎俊が待つという宮の奥に向かった。
炎俊のことだから、紫薇と何かあるかも、なんて本気で疑っているわけではないのだけれど。後宮そのものにもこの星黎《せいれい》宮にも、分からないことがまだまだ多かった。
* * *
炎俊は、池に面して建てられた四阿にて気だるげに椅子の背に凭れていた。碧羅宮の茶会は早々にお開きになったから、暗くなるにはまだ早い。
赤く染まり始めた空の色が水面にも映り、炎俊の白皙の頬を照らしている。彼が目を伏せると、意外と睫毛が長いのが見て取れてどきりとする。物憂げな眼差しは、睡蓮の花の間を蝶が飛んでもぴくりとも動かない。
(どこか、いつかを遠見か時見で見てるのかしら?)
何となく、彼の集中を乱してはいけない気がして、朱華は足音を殺して四阿の屋根の下に入った。と、不意に炎俊の唇が動く。
「──さすがに、疲れたようだな。義姉上がたは恐ろしかったか」
「そりゃあね。色々あったんだから……!」
目は動かさないまま、やはり遠見で彼女が近づくのを見ていたらしい。
(なんだ。普通に近づけば良かった!)
もはや遠慮は無用、と。朱華は軽やかに数歩を駆けて、炎俊の隣の椅子に腰を下ろした。
夫婦ふたりきりの語らいとあって、紫薇はついてきていない。茶はすでに用意されている。茶請けの歌詞については──
「これ、お土産。余ったから持たせてくださったの」
「碧羅宮の菓子か。貴重だな」
金糸の豪奢な緞子で包んだ箱を卓に置くと、炎俊は目を輝かせた。朱華が促すまでもなく、いそいそと包みを解いて蓋を開ける。
「星黎宮の厨師も決して腕が悪いわけではないが。珍しいものは、やはり食べておきたいものだ」
言いながら炎俊が摘まんだのは、砂糖菓子だ。花や蝶や、吉祥の図案を模した菓子は繊細で美しく、芸術品のよう。
だからこそ、妃たちは目で楽しむばかりで手をつけずにいたのだけれど──炎俊は、無造作に口に放り込んでいる。かり、ぽり、と噛み砕く音が聞こえたかと思うと、涼やかな目がうっとりと細められる。
見目良い貴公子の子供のような姿を前に、朱華は呆れの溜息を吐いた。
「……甘いもの好きよね、昔から」
「うん。皇宮に上がって良かったことのひとつだな。蜜も砂糖も毎日でも口にできる」
「毎日はどうかと思うけど……」
《力》を使って上手くご褒美をねだれた時は、分け合って食べるのもよくあることだった。
といっても花街で子供に与えられるのは干した果実とかの素朴な甘味がせいぜいだった。あのころの炎俊が宮廷の菓子を見たら、こんな表情になるだろう、というのは──まあ、分かる。
気味悪がられた変な力の持ち主同士で身を寄せ合った時は、朱華と炎俊は確かに友だちだった。でも、一度別れて再会した今、皇子様と贋物の姫君としてのふたりは、どうだろう。
「あんた、大姐がたにすっごい嫌われてたわよ。こんなことで本当に皇帝になれると思う?」
「そうかな? 現に私はなかなか良いところにつけている。この調子なら……そなたが、手伝ってくれたなら、どうだ?」
「手伝うって……拒否権はないんでしょ?」
言いながら、朱華も菓子をひとつ、摘まむ。翅を薄紅に染めた蝶の形をしたものだ。胡桃《くるみ》を混ぜ込んだコクのある甘味が、なぜか舌に苦かった。
当然のような顔で、危険な道に引きずり込もうとするのはひどい、と思う。もう少しすまなそうな顔をするとか、下手に出て懇願するとか、それなりの態度を取ってくれれば、手伝う気になれるのに。
むくれた朱華と視線を合わせようというのか、炎俊は身を乗り出して覗き込んできた。過去も未来も見通す深い色の目が、とても近い。
「ただで、とは言わない。富でも名誉でも、何でも良い。私なら――私が帝位を得れば、叶えてやれる」
「私の、望み……」
望みは──ないわけではない。富も名誉も欲しかった。妃になって、陶家から自由になってやろうと思っていた。でも、昔から知っているはずの炎俊に与えられて嬉しいかというと、違うような。それよりは──
「──じゃあ、私のことを本当の名前で呼んで欲しいわ」
「うん?」
「雪莉、は陶家のお姫様の名前よ。亡くなってしまったから、私を身代わりにしたてたんだけど。……顔も知らないお姫様の名前で呼ばれたくない。私は、朱華だもの」
特に、炎俊から他人の名前で呼ばれるのは、嫌だ。こいつは、彼女が何者かを知って上で妃に迎えたのだから。
またひとつ、砂糖菓子を摘まみながら──炎俊は、朱華を奇妙なものを見る目で眺めた。
「……そんなことで良いのか?」
「あ、もちろん皇后にしてくれるのは大前提よ!? その上で、ってこと!」
「ああ、なるほど」
得心したように頷く炎俊は、朱華が人並みの野心を持っているのを確かめて安心したのだろうか。
(……分かりやすい野心を持っていないと信用できないってこと……?)
そうだとしたら、不本意なような。でも、朱華も人のことは言えないような。彼女だって、「夫」のことをまだ無条件に信じることなんてできはしない。
「……私、あんたがどうやって皇帝になるつもりかも、まだちゃんと聞いてないのよ」
「だが、義姉上がたからあるていど聞いたようだな?」
唇を尖らせて訴えると、炎俊は何もかも見透かしたような眼差しで薄く微笑んだ。
呪で守られた碧羅宮での出来事は、いくら炎俊でも見えないはずだ。そもそも、時見でも遠見でも音を捉えることはできないし。
(……こいつなら、唇を読むことくらいできるのかもしれないけど)
とにかく。炎俊は、凰琴たちに説明させることで自分の手間を省いたのだろう。それも、雑な扱いな気がしてならない。
「平民を登用して色々やってる、って聞いたわ。でも、私たちみたいな人がそうそう隠れてるもの? どうやって見つけ出したの? その人たちに、何をさせるの?」
逃がさないぞ、の圧を込めて立て続けに問いをぶつけると、炎俊はにこり、と笑みを深めた。
「我らほどの力の者は確かに少ない。上手く偽証を見抜けるような試験を導入できれば良いと思っているが、まあそれは追々かな。何をさせるかについては、すぐに教えられる。──今、ここで」
「え……?」
こんなにもすらすらと、素直な答えが返ってくるのは予想だにしていなかった。はぐらかされるものと決めつけて、噛みつく用意をしていた朱華は、吸い込んだ息を間抜けに吐き出すことになった。
「ここで、って──」
いったいどうやって、と聞く前に、炎俊は朱華の手を取った。ぐいと引かれて体勢を崩した彼女の耳元に、囁かれる声は低く甘く、どこか悪戯っぽい。
「この庭なら呪は施されていない。一緒に、見に行こう」
「おかえりなさいませ、陶妃様。さぞお疲れになったでしょう」
「まあね。大姐は、どなたも手強かったから」
「炎俊様が労ってくださいますでしょう。庭園でお戻りを待たれていらっしゃいますわ」
轎子から降りる朱華に手を差し伸べてくれた、その侍女の名を、紫薇という。彼女よりもいくつか年上の、おっとりとした雰囲気の女だ。最初の朝に峯とやり合っていた者でもある。
「そうかしら? あいつにそんな気遣いがあるとは思えないわ……!」
「そのようなことは──陶妃様に再会なさるのを、とても楽しみにしていらっしゃいましたのに」
不敬な物言いをしてみても、紫薇のにこやかな笑顔は変わらない。まるで、朱華に仕えるのが喜ばしくて堪らないとでもいうかのよう。
(こういうところの侍女って、皇子様のお手付きを期待するものなんじゃないの?)
紫薇も、今日会った妃たちにまったく劣らず、整った顔立ちをしているのに。朱華が陶家の雪莉姫なんかではなく、身代わりの偽者に過ぎないともう知らされているはずなのに。
(この人にも話が通ってるから、私は星黎宮では素で話せるんだけど。よっぽど信用されてるのね……?)
紫薇は炎俊に秘密を握られているのか、それとも何か信用を勝ち取るための秘訣があるのか、朱華はまだ聞くことができないでいる。この侍女が、どんな経緯で彼に仕えているのかも。
「……こき使える駒ができるのが楽しみだったんでしょ? 私はそう思ってたわ」
「いいえ! 炎俊様があのように楽しそうになさっているのは、初めてみましたもの」
「本当……?」
和やかなようでいて、まだ気の抜けないやり取りをしながら、朱華は炎俊が待つという宮の奥に向かった。
炎俊のことだから、紫薇と何かあるかも、なんて本気で疑っているわけではないのだけれど。後宮そのものにもこの星黎《せいれい》宮にも、分からないことがまだまだ多かった。
* * *
炎俊は、池に面して建てられた四阿にて気だるげに椅子の背に凭れていた。碧羅宮の茶会は早々にお開きになったから、暗くなるにはまだ早い。
赤く染まり始めた空の色が水面にも映り、炎俊の白皙の頬を照らしている。彼が目を伏せると、意外と睫毛が長いのが見て取れてどきりとする。物憂げな眼差しは、睡蓮の花の間を蝶が飛んでもぴくりとも動かない。
(どこか、いつかを遠見か時見で見てるのかしら?)
何となく、彼の集中を乱してはいけない気がして、朱華は足音を殺して四阿の屋根の下に入った。と、不意に炎俊の唇が動く。
「──さすがに、疲れたようだな。義姉上がたは恐ろしかったか」
「そりゃあね。色々あったんだから……!」
目は動かさないまま、やはり遠見で彼女が近づくのを見ていたらしい。
(なんだ。普通に近づけば良かった!)
もはや遠慮は無用、と。朱華は軽やかに数歩を駆けて、炎俊の隣の椅子に腰を下ろした。
夫婦ふたりきりの語らいとあって、紫薇はついてきていない。茶はすでに用意されている。茶請けの歌詞については──
「これ、お土産。余ったから持たせてくださったの」
「碧羅宮の菓子か。貴重だな」
金糸の豪奢な緞子で包んだ箱を卓に置くと、炎俊は目を輝かせた。朱華が促すまでもなく、いそいそと包みを解いて蓋を開ける。
「星黎宮の厨師も決して腕が悪いわけではないが。珍しいものは、やはり食べておきたいものだ」
言いながら炎俊が摘まんだのは、砂糖菓子だ。花や蝶や、吉祥の図案を模した菓子は繊細で美しく、芸術品のよう。
だからこそ、妃たちは目で楽しむばかりで手をつけずにいたのだけれど──炎俊は、無造作に口に放り込んでいる。かり、ぽり、と噛み砕く音が聞こえたかと思うと、涼やかな目がうっとりと細められる。
見目良い貴公子の子供のような姿を前に、朱華は呆れの溜息を吐いた。
「……甘いもの好きよね、昔から」
「うん。皇宮に上がって良かったことのひとつだな。蜜も砂糖も毎日でも口にできる」
「毎日はどうかと思うけど……」
《力》を使って上手くご褒美をねだれた時は、分け合って食べるのもよくあることだった。
といっても花街で子供に与えられるのは干した果実とかの素朴な甘味がせいぜいだった。あのころの炎俊が宮廷の菓子を見たら、こんな表情になるだろう、というのは──まあ、分かる。
気味悪がられた変な力の持ち主同士で身を寄せ合った時は、朱華と炎俊は確かに友だちだった。でも、一度別れて再会した今、皇子様と贋物の姫君としてのふたりは、どうだろう。
「あんた、大姐がたにすっごい嫌われてたわよ。こんなことで本当に皇帝になれると思う?」
「そうかな? 現に私はなかなか良いところにつけている。この調子なら……そなたが、手伝ってくれたなら、どうだ?」
「手伝うって……拒否権はないんでしょ?」
言いながら、朱華も菓子をひとつ、摘まむ。翅を薄紅に染めた蝶の形をしたものだ。胡桃《くるみ》を混ぜ込んだコクのある甘味が、なぜか舌に苦かった。
当然のような顔で、危険な道に引きずり込もうとするのはひどい、と思う。もう少しすまなそうな顔をするとか、下手に出て懇願するとか、それなりの態度を取ってくれれば、手伝う気になれるのに。
むくれた朱華と視線を合わせようというのか、炎俊は身を乗り出して覗き込んできた。過去も未来も見通す深い色の目が、とても近い。
「ただで、とは言わない。富でも名誉でも、何でも良い。私なら――私が帝位を得れば、叶えてやれる」
「私の、望み……」
望みは──ないわけではない。富も名誉も欲しかった。妃になって、陶家から自由になってやろうと思っていた。でも、昔から知っているはずの炎俊に与えられて嬉しいかというと、違うような。それよりは──
「──じゃあ、私のことを本当の名前で呼んで欲しいわ」
「うん?」
「雪莉、は陶家のお姫様の名前よ。亡くなってしまったから、私を身代わりにしたてたんだけど。……顔も知らないお姫様の名前で呼ばれたくない。私は、朱華だもの」
特に、炎俊から他人の名前で呼ばれるのは、嫌だ。こいつは、彼女が何者かを知って上で妃に迎えたのだから。
またひとつ、砂糖菓子を摘まみながら──炎俊は、朱華を奇妙なものを見る目で眺めた。
「……そんなことで良いのか?」
「あ、もちろん皇后にしてくれるのは大前提よ!? その上で、ってこと!」
「ああ、なるほど」
得心したように頷く炎俊は、朱華が人並みの野心を持っているのを確かめて安心したのだろうか。
(……分かりやすい野心を持っていないと信用できないってこと……?)
そうだとしたら、不本意なような。でも、朱華も人のことは言えないような。彼女だって、「夫」のことをまだ無条件に信じることなんてできはしない。
「……私、あんたがどうやって皇帝になるつもりかも、まだちゃんと聞いてないのよ」
「だが、義姉上がたからあるていど聞いたようだな?」
唇を尖らせて訴えると、炎俊は何もかも見透かしたような眼差しで薄く微笑んだ。
呪で守られた碧羅宮での出来事は、いくら炎俊でも見えないはずだ。そもそも、時見でも遠見でも音を捉えることはできないし。
(……こいつなら、唇を読むことくらいできるのかもしれないけど)
とにかく。炎俊は、凰琴たちに説明させることで自分の手間を省いたのだろう。それも、雑な扱いな気がしてならない。
「平民を登用して色々やってる、って聞いたわ。でも、私たちみたいな人がそうそう隠れてるもの? どうやって見つけ出したの? その人たちに、何をさせるの?」
逃がさないぞ、の圧を込めて立て続けに問いをぶつけると、炎俊はにこり、と笑みを深めた。
「我らほどの力の者は確かに少ない。上手く偽証を見抜けるような試験を導入できれば良いと思っているが、まあそれは追々かな。何をさせるかについては、すぐに教えられる。──今、ここで」
「え……?」
こんなにもすらすらと、素直な答えが返ってくるのは予想だにしていなかった。はぐらかされるものと決めつけて、噛みつく用意をしていた朱華は、吸い込んだ息を間抜けに吐き出すことになった。
「ここで、って──」
いったいどうやって、と聞く前に、炎俊は朱華の手を取った。ぐいと引かれて体勢を崩した彼女の耳元に、囁かれる声は低く甘く、どこか悪戯っぽい。
「この庭なら呪は施されていない。一緒に、見に行こう」