一ノ瀬紅太郎は、三宅蒼真にとってヒーローである。
照れ臭くて紅太郎本人にこのことを伝えたことはないのだが、蒼真はずっと紅太郎に憧れている。名前にも〝紅〟と入っているし、性格もまさに戦隊モノのリーダーのように真っ直ぐで何事にも物怖じしない。蒼真が困った時にはすぐに駆けつけてくれるし、間違ったことは間違っているとハッキリ言うし、理不尽にも屈することはない。蒼真からすれば画面の向こうで戦っている正義の味方よりも紅太郎のほうがずっと魅力的で、強くてかっこいい蒼真の味方だった。
だから小学校の卒業式の日、蒼真は人目を憚らずに大声を上げてわんわん泣いた。
紅太郎が自分とは別の中学校に進学してしまうことを蒼真はその日まで知らなかったのだ。
「お別れだね、コウちゃん……」
「さっさといけっつーの」
しんみりとした雰囲気で紅太郎に囁きかけた蒼真は、その尻を強かに蹴り上げられた。手加減されていたので悲鳴は上げなかったものの、すぐに手や足が出る紅太郎に蒼真は文句を垂れた。
「少しぐらい寂しがってよぉ〜」
「委員会遅れるぞ」
雑に追い払おうとする紅太郎に蒼真は唇を尖らせつつ、しぶしぶ教室から出て行った。先ほど保健委員会の集まりが一階の会議室で行われることが放送で伝えられた。昼休み、ざわつく校内を蒼真はひとりで闊歩する。二年C組の保健委員は蒼真の他にもうひとり居たのだが、あいにく今日は欠席しているため、蒼真は委員会の集まりをサボるわけにはいかなかった。
とはいえ、参加してみるとたいした集まりではなかった。夏に向けての注意事項や、保健室の利用に関する問題点について軽く話し合い、以前に学校全体で実施した健康に関するアンケートの結果を共有するというありきたりなもので、蒼真は会議室の窓際の席であくびを噛み殺すのに必死だった。それなのに妙に真面目な雰囲気だったこともあり、コンビニのビニール袋からガサゴソと昼食を取り出す勇気も出ず、蒼真は二人分のプリントを預かると集まりが終わればそそくさと部屋を出ていった。
一階から四階へ上がるために蒼真がわざわざ外階段を使ったのは、一階から二階へ続く階段の踊り場で女子生徒たちが動画を撮っていたからだ。邪魔するのも悪いし、とっ捕まって一緒に撮ってほしいなどと言われたら最悪だ。変なダンスを踊っている動画をSNSにアップしなくとも蒼真の承認欲求が校内を歩いているだけで満たされている。むしろ、これ以上の他人からの承認など必要ないから放っておいて欲しいとすら思っていた。
そうして足を踏み鳴らしながら外階段を昇っていた蒼真が三階に続く踊り場で出会ったのは意外な人物だった。
「あっ……」
階段に腰を下ろしていた仁藤翠結は蒼真の姿を見つけるなり思わず片手で口元を押さえた。本当は両手で顔を隠したかったのだが、利き手には箸が握られていたので片手しか自由に動かせなかった。つまみ上げていた卵焼きを弁当箱に戻すと仁藤は端の方に寄って蒼真が通れるように隙間を空ける。
しかし、蒼真がそこを通り過ぎることはなかった。
「翠結ちゃ〜ん! なにしてんの?」
蒼真が大股で近付いていくと仁藤は口元を隠しながら答える。
「ご飯……食べてます……」
見れば分かることでもきちんと教えてくれた仁藤の前で蒼真は仁王立ちした。もちろん、彼女の周りに他の女子生徒はいない。こそこそと隠れるようにして外階段で昼食をとっている仁藤にかける言葉を蒼真は悩んだ。同情も心配も的外れなような気がしてしまう。
結局、小さく唸ってから蒼真は仁藤の隣に腰を下ろした。
これに驚いたのは仁藤のほうである。
「なんで!?」
反射的に叫んだ仁藤に蒼真はあからさまに眉を顰めた。仁藤の声に喜色は全く滲んでおらず、まるで蒼真が奇行に及んだかのような驚きっぷりだ。あまりこういう扱いを女子から受けたことがない蒼真は戸惑った。
「え、ダメなの?」
「だ、ダメじゃないですけど……紅太郎くんはどうしたの?」
仁藤の口から飛び出した名前に蒼真がムッとしたのは言うまでもない。
「コウちゃんなら教室だけど?」
紅太郎が居ない場面ではあまり使わない愛称をわざと使えば蒼真はビニール袋から食べ損ねていた昼食を取り出した。そして本格的に食事の準備を始めた蒼真に仁藤は苦笑を漏らす。
「……冷やし中華、美味しいよね」
そんな当たり障りのない話題からふたりの会話は始まった。
あまり親しくない人間同士が会話をするとたいていは共通の話題を探そうとする。仁藤翠結と三宅蒼真も例に漏れずそうなったが、彼らにとっての共通の話題といえば——紅太郎のことである。
「英語部!? マジで?」
中学の頃に紅太郎が所属していた部活を仁藤から教えてもらった蒼真はあまりの衝撃に咽せそうになった。割り箸の間からハムや錦糸卵をボトボト落とした蒼真に仁藤は笑いながら頷く。
「マジだよ。意外だよね」
「意外っつーか……聞いてないんだけど……」
部活をきっかけに紅太郎と仲良くなったという仁藤の言い分にも蒼真は呆然とした。あの金髪のヤンキー崩れが真面目に部活動に勤しんでいる姿が想像つかない。しかもよりにもよって響きからすでに真面目そうな英語部に所属しているなんてギャップがあるにも程がある。
「てか、英語部ってなにすんの? 僕が通ってた中学にはなかったんだよね」
「えーっと……英語の本を読んだり、英会話の練習をしたり、英語でスピーチをしたり……スピーチの大会もあって……」
「うそぉ……うちのコウちゃんがそんなアカデミックな部活に? 別人じゃなくて?」
「ふふっ、ちゃんと本人だったと思うよ? 髪の色は違ったけど……」
そこまで聞いても英語部所属の一ノ瀬紅太郎のイメージが全く掴めなかった蒼真は仁藤に向き直って詳しく聞かせてほしいと頼み込んだ。その必死さに仁藤は戸惑いつつも答える。
「うちの中学って部活は強制参加なんだけど……」
「僕んとこもそうだった」
「うん、それで……紅太郎くんは六月も過ぎたのにどこにも入部届を出してなかったの」
「……運動部に勧誘されたでしょ?」
「全部断っちゃったみたい」
「なんで?」
「そこまでは知らなくて……」
苦笑いを浮かべる仁藤に蒼真は口元に指当てて考え込む。あの紅太郎が運動部の勧誘を振り切ってまでどの部活にも入らなかった理由が蒼真には分からない。あの頃は僕がいるわけでもないのに……と無意識に考えたことに蒼真は自分で気付いて、急に恥ずかしくなった。そんな落ち着きのない蒼真の心を仁藤は知りもせずに話を続ける。
「紅太郎くんが中学一年生だったときの担任の先生が英語部の顧問だったの」
「その人が紅太郎を無理やり英語部に入れたってわけ?」
「えっと、なんか……先生が勧誘したら紅太郎くんが自分から入部届を出しに来て……」
「え、急に?」
「英語を話せるとカッコイイぞ、って先生に言われたからそれを信じたみたい……?」
蒼真は思わず絶句した。
そんなの僕が知る一ノ瀬紅太郎じゃない!と叫び出したくなる衝動と、いやでも紅太郎っぽいかも……と納得してしまう心が蒼真の脳内で戦っている。割り箸の頭をぐりぐりと眉間の辺りに押し付けて蒼真はウーっと唸る。
運動部であればきっとどの部活でも大活躍出来るはずの紅太郎が「かっこよさ」のために英語部に入部したという事実が蒼真には到底受け入れられない。仁藤が何か勘違いしているのではないかとつい疑ってしまう。
でも、蒼真が何を思おうとも英語部を通して仁藤と紅太郎が仲良くなったという事実は揺るがないので、そちらのほうの事情を掘り下げることに蒼真はシフトした。
「……紅太郎は英語部で何してたの? 翠結ちゃんと一緒に活動してたんだよね」
「あ、うん。えっと……漫画読んでた」
「漫画読んでた!?」
蒼真が勢いよく聞き返せば仁藤は慌てて弁明する。
「ただの漫画じゃなくて……その、日本の漫画の……英語版というか……」
「あぁ、へぇ〜?」
「日本の漫画って独特の表現が多いから……それが英語に訳されるとどういう表現になるのかなっていう……研究、みたいな?」
「ほぉ〜ん?」
蒼真は興味無さげに相槌を打つが、ピリピリとした苛立ちを抑え込むのに必死だった。要するに漫画を通じて紅太郎と仲良くなったらしい仁藤につい鋭い視線を向けてしまう。同じ部活というだけではなく、共通の趣味があるということは蒼真が想定していたよりも紅太郎と仁藤は仲が良い可能性があった。
蒼真は唇を軽く噛み締めてからニッコリ笑って仁藤に尋ねる。
「そうなんだぁ、どんな漫画読んでたの?」
コンビニで売っていた冷やし中華の容器にはもうほとんど黄色い麺は残っていない。茶色い汁にはハムと錦糸卵の切れ端がまばらに浮いていた。蒼真は割り箸をビニール袋に放り込んで、伸ばしていた片膝を曲げる。
仁藤は小さなタッパーに詰め込まれたフルーツをつつきながら答えた。
「と、東京バックドロップとか……BE:STRIKEとか……」
その答えを聞いた瞬間、蒼真は目を細めた。仁藤が挙げた漫画はどちらも蒼真の部屋の本棚に収められているシリーズだった。
特に『BE:STRIKE』は、単行本が出たばかりの頃から気に入っていて今に至るまでずっと買い揃え続けている漫画だ。その最新刊を目当てに紅太郎が蒼真の部屋に訪れることもある。
それを部活動の一環とはいえ、中学生の頃から紅太郎が仁藤と分かち合っていたことを知った蒼真は、またもや唇を噛んだ。
「へえ、翠結ちゃんってああいう暴力的な話が好きなんだ。なんか意外だね」
笑顔を貼り付けたまま蒼真が頷けば、イチゴを口に運んでいた仁藤の手が止まる。
「……三宅くんも読んだことあるの?」
「うん、まあ……」
全巻持ってるけどね、とは流石に蒼真も言わなかった。
なんだか言葉を重ねれば重ねるほど心の底に溜まっていた醜い感情が滲み出てくるような気がしていた。
しかし、そんな蒼真をぶった斬ったのは仁藤の鋭い指摘だった。
「——だとしたら『暴力的』とかそんな感想にならなくない?」
「は?」
思わぬ反撃に蒼真は笑顔のまま固まった。
一方で仁藤は勢いよく口火を切る。
「東京バックドロップは廃部寸前のプロレス部を立て直す話だけど、プロレスという競技自体にスポットを当てつつ、男子高校生たちの青春を描いた作品で、新入部員の久本と部長の神林の関係性もアツいし、プロレスが単なる暴力によるものじゃないって話の中で何度も繰り返されるからちゃんと読んでたらそういう感想にならないと思うんだよね」
「あ、うん……」
「BE:STRIKEのほうは、いわゆる不良モノだけど喧嘩部って概念があってちゃんと戦いにおけるルールも設定されてるし、拳で戦うことの意義とか、誰かを守るための戦いについて描かれてるし、新章に入ってからはちょっとファンタジー色強くなっちゃったけど、喧嘩を通じたキャラクター同士の絆に重点を置かれてて、そもそも作中における『暴力』の定義が私たちが生きている世界と異なるじゃん?」
「そう……だね……」
「だからさ、もしも三宅くんがちゃんと読んでるって言うなら『暴力』ってひとことでは括れないはずなんだよ。東バクも! ビーストも!」
「はい……」
急に早口で捲し立てる仁藤を前に蒼真は縮こまって一回り小さくなる。急に別人が乗り移った?と茶化すことすら出来ず、ただひたすら相槌を打つしかなかった。蒼真はどちらの漫画も最新刊まで読んでいるのでもちろん仁藤が話している内容も理解できるはずなのだが、ちっとも頭に入ってこない。大量の疑問符が蒼真の脳内を埋め尽くす。
「仁藤さんって……漫画、好きなんだね?」
「うん、好きっていうか……もはや生き甲斐って感じ!」
「そうなんだ……」
蒼真は顔を引き攣らせながら手の中にあるビニール袋の口を硬く縛った。なんか仁藤さんって想像していたようなタイプじゃないな、と今更ながらに思う。
「紅太郎くんとも漫画の話で仲良くなったんだよね。まあ、大抵の場合は私が語り始めると『うるせえ』とか『しらねえ』とか『きいてねえ』とか言ってまともに取り合ってくれないんだけど……」
「ははは……そっかぁ……」
乾いた笑いを漏らす蒼真のことも気にせずに仁藤は最後のひとつのイチゴを食べ終えると空になったタッパーの蓋を丁寧に閉めた。爪はツヤツヤで、まつ毛もバッチリ上がっていて、前髪は全く崩れていない。見た目だけなら蒼真に群がってくる女子生徒たちと何ら変わりないのに、なにか引っ掛かるところがあったのは仁藤がいわゆる漫画のキャラにしか興味が無いタイプだからなのだろうか——結論を出すのはまだ早いが、蒼真の警戒心はじわじわと緩みつつあった。
蒼真は、スマホを取り出して時刻を確認する。予鈴が鳴るまで、あと二、三分ぐらいだった。チラッと仁藤のほうへ視線を向ければ彼女は弁当袋を片手に立ち上がりかけていた。
蒼真は思わず声を掛ける。
「あっ、仁藤さん!」
「んー?」
「紅太郎が、なんで髪染めたのか知ってる?」
焦り過ぎて投げかける質問を間違えた感覚はあった。それでも、気になることは全部聞いておきたくて蒼真は視線に期待を込めてじっと仁藤を見つめる。
そんな蒼真に仁藤は嫌な顔ひとつするどころか、満面の笑みで答えた。
「知ってるよ〜」
しかし、それ以上は答えずに仁藤は階段を昇り始めてしまった。
当然のように置いて行かれた蒼真は慌てて追いかける。
「あ、あれ? 知ってるんでしょ? 教えてよ〜?」
ちょっと可愛こぶって蒼真が仁藤の顔を覗き込むと仁藤はピタリと足を止めた。
それから長めに息を吐き出すと胸の前で腕を組む。
「……三宅くんってさ」
「うん?」
「ほんとわかりやすいよね」
「え?」
仁藤はフッと鼻で笑うと跳ねるように階段を駆け上がっていった。
呆然とする蒼真を放置して仁藤は四階の廊下に繋がる扉を開ける。
そして一瞬だけ蒼真を振り返れば仁藤はニコッと笑う。
「知りたいことがあるなら本人に聞いたほうが早いと思うよ」
最後にそれだけ伝えると仁藤は蒼真の目の前で扉を閉じる。
カチャリ、と音が鳴った。
焦った蒼真がドアノブに手を伸ばすも、ガチャガチャと鳴るだけで扉は開かない。
「——く、クソ女ぁ!!」
蒼真は雄叫びを上げながら外階段を駆け降りた。
三階まで下がって、廊下を走って、また階段を上がって——そんな回り道を経て四階の教室に駆け込むと蒼真は一直線で紅太郎の元に向かう。
「たかが漫画の話でほだされてんじゃねえよ!」
「はぁ?」
息を切らしながら迫ってくる蒼真に、紅太郎は怪訝な顔をしながらも飲みかけのペットボトルを差し出す。
それを奪い取って飲み干せば、蒼真はもう二度と仁藤翠結のことを下の名前で呼ぶまいと静かに決意した。