一ノ瀬紅太郎は、三宅蒼真にとってのヒーローになりたかった。
 恥ずかしがるだろうから蒼真本人にこのことを伝えたことはないのだが、蒼真がずっと自分に憧れていることに紅太郎は気付いていた。なにせ蒼真はわかりやすいのだ。小学校に入学した頃から蒼真は紅太郎について回っていた。「コウちゃん」と呼ばれて紅太郎が振り返れば、にへらぁと笑う蒼真がいて「すごいねえ」「かっこいいねぇ」と事あるごとに褒めてくれるのだ。
 鉄棒で回り過ぎて吐いた時も、ブランコから飛び降りて怪我をした時も、逆立ち歩きで校庭一周して上級生から金をせびりとった時も、大人たちはみんな紅太郎のことを叱ったが、蒼真だけは紅太郎にキラキラした目を向けてくれた。それが紅太郎は嬉しくて嬉しくて、たまらなかった。
 あの輝く瞳を自分だけに向けていて欲しい。
 ずっと蒼真のヒーローでいたい。
 そう思っていたからこそ紅太郎は、小学六年生の秋に両親が離婚したことも、そのせいで蒼真と同じ中学校に進学出来なくなったことも、蒼真に伝えることが出来なかった。


 「うーん……?」

 蒼真は唸っていた。店の隅にある茶色い革張りのソファー席。細かい傷がいくつもついている古いテーブルの上には中身がだいぶ減っている白い陶器のコーヒーカップ。板張りの壁から突き出たアンティークの照明の下で、長い指がペラッと漫画のページを捲る。
 薄暗い店内。耳を澄ませば古びたレコード音楽が聞こえてくるが、いつも似たような選曲なので誰も気にも止めない。煙草と珈琲の匂いが混じり合ったような香ばしくも苦々しい香りが空間を満たす。客の入りは悪く、昼間ならともかく夕方になるとまだ日が高くてもほとんど席が空いている。新規の客はほとんど訪れず、常連ばかりが顔を出す喫茶店——それが紅太郎のバイト先だった。
 学生の身の上ながら常連客である蒼真は、いつもの席で表紙が擦り切れてボロボロになっている漫画を読んでいた。蒼真が生まれる前に連載が始まり、いまだに結末を迎えていない古いバトル漫画なのだが、蒼真は読み進めながら猛烈な既視感に襲われていた。首を左右にゆらゆら揺らしながらまた唸る。

 「んん〜?」

 この既視感の正体を探るべく頭を悩ませているのだが、全く思い出せない。もどかしさに苛立ちすら覚えて飲みかけの珈琲をガブ飲みする。カフェインの助けがあればもう少し脳が働くかと思ったのだ。
 しかし、そんな蒼真の様子に近くに居た店員が苦言を呈する。

 「おい、そんな雑に飲むな。もっとちゃんと味わえ」
 「ええ〜? 飲み方は客の自由じゃないの?」

 こだわりの強いラーメン屋かよ、と蒼真が突っ込めば紅太郎は口をへの字に曲げた。その珈琲は俺が淹れたんだぞ、この俺が——とアピールしたくて堪らなくなったが、それは流石に格好悪いと思ったので紅太郎は口を噤み、無意味にモップを動かした。


 紅太郎がバイトしている喫茶店は不定休で店を開けているのは週三日程度。ほとんど潰れていると言ってもいいが、常連のおかげで客足は絶えることはなく、腰痛持ちでカウンターの奥にある椅子に座りっぱなしの店主の代わりに掃除や給仕を行うバイトをひとりだけ雇うことが出来ている。
 今から一年前——金髪でいかにも柄が悪く不真面目そうな紅太郎が、剥がし忘れていた古い求人ポスターを真に受けて面接しに来たときには店主も驚いた。こんな寂れた喫茶店で紅太郎が働きたい理由が分からなかったからだ。しかし、至極真面目な態度で紅太郎は答えた。

 『美味い珈琲が淹れられるやつって格好良くないっすか?』

 その一言で紅太郎の採用が決まった。
 一年間の修行を経て珈琲を淹れる姿もすっかり様になってきた紅太郎だが、常連からの評判はまちまちだ。この喫茶店を喫煙所の代わりしている紳士たちからはマスター顔負けだと褒められるものの、それがリップサービスだと気付かされたのは辛口の常連が毎回のように文句を言ってくるからだ。
 その常連客の名前は——三宅蒼真という。

 「なんか渋くない?」
 「うーん、酸っぱい」
 「……ちょっと薄い?」
 「おいしくなぁーい」

 素直な感想を聞かされるたびに紅太郎はコーヒーカップをシンクに叩きつけたくなる衝動に駆られ、それを必死に抑えていた。料理なら人並みに出来るが、珈琲となれば話は別だ。そもそも紅太郎は苦味が強いものが得意ではない。それなのに美味しい珈琲を淹れられるようになりたいと思ったのは、蒼真のせいである。


 蒼真が珈琲好きだと紅太郎が知ったのは小学校五年生の頃だった。
 ある日、蒼真の家で紅太郎たちが遊んでいたら蒼真の母親が飲み物を運んできた。いつものようにオレンジジュースと牛乳だと紅太郎が思っていると蒼真の目の前に牛乳ではなく、ベージュ色の液体で満たされたグラスが置かれた。
 その液体の正体はカフェオレだった。
 ほんのりと珈琲の苦味が効いた飲み物を蒼真は美味しそうにゴクゴクと飲んだ。紅太郎も一口分けてもらったが、香ばしい苦味が好きではなくて、牛乳だけのほうがずっと美味しいと思った。
 それなのに、蒼真は小さな声で呟いた。

 『本当は珈琲だけのほうがおいしいんだよね』

 ——その一言に紅太郎は衝撃を受けた。
 珈琲は大人の飲み物だ。それを飲めるのはカッコイイ大人の証だ。紅太郎もいつか大人になったら珈琲が飲めるようになると思っていた。けれども蒼真はまだ子供なのに、珈琲を飲めて、それを美味しいという。
 つまり蒼真はもうすでにカッコイイ大人になってしまったのだ。
 紅太郎よりもずっと背が小さくて、目もクリクリしてて髪もふわふわで、ジャングルジムから落ちただけで大泣きして、紅太郎がいなければひとりで下校することすらままならない蒼真が、自分よりもカッコイイ大人の男だった——!?
 紅太郎は焦った。その日から珈琲を飲めるようになるために特訓をした。親の目を盗んで珈琲を買って、牛乳と混ぜ合わせて飲める比率を探した。最初は珈琲1割、牛乳9割でも苦くてダメだった。徐々に2:8、3:7まで持ち込んだのだが——それ以上は無理だった。
 小学生の紅太郎にとって珈琲は苦くて、まずくて、美味しく飲めないものだった。
 紅太郎はどうしたらいいのか分からず、思い悩む日々が続いた。
 蒼真は、あんなにも純粋に紅太郎を慕ってくれているのに——珈琲のひとつも飲めないなんて!
 俺は、蒼真のヒーローとして相応しくなんかないんだと紅太郎は絶望した。ぜんぜんカッコよくない、偽物のヒーローだ。いくら蒼真を守ろうとしたって無駄だ。それはヒーローのフリでしかなく、本物にはなれないのだ。今になって振り返ると馬鹿馬鹿しい上に破綻しまくっている考え方だが、当時の紅太朗は本気でそう思っていた。
 そしてついには蒼真の前で泣いてしまった。

 『コウちゃんは牛乳でいいよね?』

 蒼真の母親にそう言われた瞬間に紅太郎の目の前は真っ暗になった。
 蒼真が初めて紅太郎の前でカフェオレを飲んだ日から、蒼真の母親に次から蒼真と同じものを出して欲しいと頼んでいたが、蒼真の母親はそれを子どもらしい対抗心によるものだと思っていた。まさか並々ならぬ決意と責任感によるものとは知らず、毎回のようにほとんど口をつけていない紅太郎のグラスを見て蒼真の母親は胸を痛めていた。
 そもそも蒼真の母親が蒼真にカフェオレを出していたのもずっと背が小さい息子に牛乳を飲ませたいが、そのままだと全部飲んでくれないので、珈琲をちょびっとだけ混ぜていただけだ。父親が朝に飲んでいる珈琲を息子がこっそり一口もらって飲んでいたことは母親も知っていたものの、まだ小学生なので珈琲を飲ませるのは早いと考えていた。特に他所のお家から預かっている紅太郎に飲ませていいものかと悩んでいたので、口に合わなくて残してしまうなら牛乳に戻したほうがいいと思った。
 しかし、紅太郎は蒼真の母親からカフェオレではなく牛乳を差し出された瞬間にこの世が終わったと思った。
 ついに蒼真の母親にすらもお前は『カッコイイ大人』ではないと烙印を押されてしまったのだと紅太郎は勘違いし、ぐしゃぐしゃに泣いた。みっともないと思っても止まらなかった。蒼真のヒーローとして、蒼真の母親に受け入れてもらえなかったことが辛くてたまらなかった。そしてそれを蒼真にも見られたことも——。
 紅太郎が蒼真の前で泣いたのは、あの時だけだった。大人にどれだけ叱られても、上級生にドッチボールで負かされても、人前で滅多に泣かない紅太郎が(誤解ではあるものの)母親に泣かされた姿を見て、蒼真は仰天した。
 あの紅太郎が泣くわけがない。
 さては相当なことを自分の母親がしでかしたのだろうと察した蒼真は果敢にも母親に立ち向かい、紅太郎を庇った。それに困惑したのは蒼真の母親の方で、繰り返し紅太郎に謝罪を述べたのだが、そういうことではないので紅太郎は泣き止まなかった。
 結局、当時高校生だった蒼真の姉が帰宅して彼らの間に入り、蒼真にも蒼真の母親にも言えなかった紅太郎の想いを聞き出してなんとか場を納めた。蒼真の姉が紅太郎の想いを蒼真に直接伝えるような真似はしなかったことが何よりも紅太郎にとってありがたいことだった。ただ彼女はぐちゃぐちゃになった紅太郎の顔を丁寧に拭いてやり、なんとか泣き止んだところで弟を呼び寄せて、蒼真がどれほど紅太郎を尊敬しているのか彼の口から語らせた。そして「どんなことがあってもコウちゃんは世界一カッコイイ!」という蒼真の言葉にようやく紅太郎は安心したのである。


 あの日の出来事は、紅太郎にとって相当な黒歴史であったが、同時に彼の人生の方向性を定めるきっかけとなった。蒼真の憧れで居続けることが紅太郎の理想であり、蒼真のヒーローになることが紅太郎の夢だった。それは中学校に上がって蒼真と離れ離れになった後も変わらなかった。

 「ねえ、コウちゃ〜ん」
 「ぁあ?」

 紅太郎は蒼真に呼ばれると在庫整理の手を止めて、すぐに席まで飛んでいった。走っていくとバレるので、なんとか歩みを緩めて早歩きをする。そして蒼真のテーブルに辿り着くと勿体ぶった態度で腕を組んで見せる。

 「なんだよ」

 ぶっきらぼうに返事をしつつも、その表情は真剣だった。蒼真の期待に応えて見せるという気概が紅太郎の鋭い眼差しから滲み出ている。しかし、蒼真は昔から紅太郎が背負っているものには全く気付いてはおらず、今日もダルそうに絡んでくる。

 「この漫画さぁ、なーんかめちゃくちゃ見たことあんだけど……なんでだろう?」

 蒼真は読んでいる途中の漫画を紅太郎に差し出して首を傾げる。どうでもいい質問だ。どうせ家に帰って風呂に入る頃には忘れている。けれども紅太郎は真面目に考え込んだ。

 「ん……?」

 そして、擦り切れた表紙と、黄ばんだページを交互に眺めたのちに小さく頷く。どうやら蒼真が覚えた既視感の正体を紅太郎はすぐに思いついたらしい。紅太郎は漫画を閉じて蒼真に突っ返す。

 「ああ、〝ビースト〟だろ。画風も構図も結構似てっし」
 「……ああ、確かに!」

 蒼真は漫画のページを開いてじっくり堪能すると納得した様子で頷いた。どうやらモヤモヤは晴れたらしい。
 しかし、紅太郎が在庫整理に戻るために奥に引っ込もうとすればエプロンの裾を掴んで引き留める。

 「えっ……てことは、パクリ!?」
 「なんでだよ」

 驚愕する蒼真に紅太郎は思わず突っ込む。笑いを堪えつつ、ぶっきらぼうに答えた。

 「親子なんだよ。ビーストと、牙影伝説の作者が」
 「ええええええッ!?」

 その新事実に蒼真がソファーからずり落ちそうになったのを見て、紅太郎はフハッと吹き出した。リアクションがデカすぎるところは昔から全く変わっていない。むしろ歳を重ねるごとに大袈裟になっている気さえする。紅太郎は喉の奥でクックッと笑いながら蒼真がスマホでふたつの漫画の作者を検索する姿を眺めていた。

 「ええっ、マジだ! いつもの嘘かと思った……」
 「俺が嘘つくわけねーだろ」
 「それがもはや嘘じゃん」

 くだらない嘘を吐くのは蒼真も同じなのだが、自分のことは棚に置いて蒼真はケラケラ笑う。それから物珍しそうにスマホの画面を眺めて、ヘーとかフーンとかひとりで頷いていた。蒼真はさっそくネットの百科事典を通してそれぞれの作者に関するエピソードをさらったり、出版社主催の対談記事を眺めたりしているらしい。相変わらず好奇心旺盛だなと思いつつ、紅太郎はようやく仕事に戻る。

 「てかなんでそんなことコウちゃんは知ってんの?」

 ——かと思いきやまた蒼真が話しかけてきたので紅太郎は足を止めた。

 「ニトから聞いた」

 蒼真の質問に紅太郎が端的に答えるも、それを聞いた途端に蒼真に機嫌は一気に暴落する。

 「……ふぅ〜ん?」

 語尾につれて声の音程がグッと高くなれば蒼真はわざとらしく足を組み、睨むような視線を紅太郎に寄越した。
 最近の蒼真は事あるごとに不機嫌になる。本人は隠しているつもりなのだろうが、蒼真は昔から嘘を吐くのが上手くないので紅太郎には筒抜けだった。知らない相手に昔の写真を見られたくないし、女子に絡まれるのも好きじゃないし、男子が好むような猥談も得意ではない。だからこそ紅太郎は蒼真に関するさまざまなことに気を配っているつもりなのだが、近頃はニトこと仁藤の名前を聞くだけでも蒼真が嫌がるので紅太郎は少し困っている。
 今日だって帰り際に学校の玄関で仁藤と顔を合わせた瞬間、蒼真は露骨に顔を歪めた。

『あれあれぇ〜? 仁藤さんじゃ〜ん! お元気ぃ〜?』

 それなのに自ら絡みに行く蒼真の意図が紅太郎には理解出来ない。
 さらに仁藤も知らぬ間に蒼真に対して馴れ馴れしくなっている。

『わぁ〜! 蒼真くんだ〜! 私は元気だよぉ〜?』

 わざとらしいぶりっ子をする仁藤に紅太郎はドン引いた。お前、どうした?そういうタイプじゃなかったよな?と突っ込みたくなるが、二人の間にただならぬ雰囲気を感じて黙っていることにした。

『こないだはよくもやってくれたわねぇ〜! 許さなくってよぉ〜?』
『あら、ごめんあそばせ〜? でも蒼真くんは足速いから授業には間に合ったんじゃなくって〜?』
『当たり前でしてよぉ〜? 元陸上部を舐めないでくださいまし〜?』
(——なんだこれ)

 それは、目の前の光景に対する紅太郎の率直な感想だった。中学の同級生と、幼馴染がお嬢様言葉で煽り合う様子に紅太郎は困惑したし、微妙な疎外感を味わった。ここで『いったいなんなんですの〜?』と切り込む勇気が紅太郎にあったらよかったのだが、そうしたところで蒼真も仁藤も真顔で黙り込んでしまう未来しか見えなかったので何も言わなかった。

『紅太郎! さっさといこ!』
『またね〜、紅太郎くん』

 結果としてその判断は正しく、蒼真も仁藤も紅太郎に対してはお嬢様言葉を使うことはなく普通に話しかけてきたのでコミュニケーションの難しさを紅太郎はしみじみと感じる羽目になった。

(——ご機嫌ようとか言ったほうがよかったのか……?)

 それでも紅太郎は、蒼真と仁藤の独特なコミュニケーションに加われなかったことについてバイト先に辿り着くまでの道中でもずっと思い悩んでいた。

 「紅太郎って仁藤さんと仲良いよねぇ〜?」
 「……そうでもねえだろ」

 蒼真の嫌味っぽいフリにも紅太郎は素直に頷けなかった。
 紅太郎にとって仁藤は数少ない女友達でもあった。目つきが悪く、妙な迫力がある紅太郎に対して他の女子のように怯えたりしなかったし、なんとなく蒼真の姉に似ているところがあって親しみやすく、しかも女子があまり読まないようなコアな漫画の話にも付き合ってくれた。漫画についてはむしろ紅太郎が仁藤の勢いに置き去りにされることもあったが——英語部に途中入部した際に明らかに浮きまくっていた自分とペアを組んでくれたことに紅太郎は心から感謝していた。
 本当は、中学生になったら運動部に入ろうと思っていた。
 サッカー部でも、バスケ部でも、バレー部でも、野球部でも——なんでもいい。とにかく派手に活躍しているところを蒼真に見せてやりたかった。けれども、そんな紅太郎の未来は脆くも崩れ去った——両親の離婚と共に。
 元々、共働きで紅太郎は自宅ではなく、ほとんど祖母に育てられ、放課後は蒼真の家で過ごしていた。蒼真の家族はみんな優しくて、蒼真の家は過ごしやすかった。祖母は優しかったが、紅太郎の母親について悪く言うし、自宅では夜中になると罵り合う両親の声が聞こえてきてよく眠れなかった。
 蒼真の両親を見ていれば健全な家庭というものはどういうものなのか紅太郎には理解出来た。普通だったら母親という生き物は酔っ払った勢いで息子に「しね」とか「ころす」とか叫ぶことはないし、父親という存在はそんな母親を落ち着かせて息子を庇うべきであり、溜息を吐いて外に出ていくなんてことはしてはいけないのだ。息子である自分も、両親から殴られたことも蹴られたことも一度もないからと言って様子を見にきた大人に「大丈夫です」と言ってはいけなかった。少しでも長く三人でいたいからと足掻いたところで一度入った亀裂が元に戻ることはないのだと、紅太郎は小学校六年生の秋に思い知った。
 紅太郎は母親と共に引っ越し、蒼真とは同じ中学には通えないことを母親から知らされた。離婚後はしばらくバタバタしていて、紅太郎は部活のことなどすっかり忘れていた。いくつかの運動部に勧誘されたが、どれもお金も時間もかかりそうだったのでやめた。そんなことより料理や家事を早く覚えて、仕事を頑張っている母親の役に立ちたかった。
 中学一年生のときの担任だけが紅太郎の事情を知っていた。六月になっても入部届を出さない紅太郎を心配した彼は、英語部に入部を進めた。自分が顧問をしているから融通が効くし、部活がある日に早く帰っても構わない。何より英語を話せる奴はスポーツができる奴と同じくらいカッコいいぞ!と後押ししてくれたので、紅太郎は嬉々として入部届を書いた。
 離婚後、紅太郎の母は頻繁に酔っ払うことはなくなったし、紅太郎を罵倒することも極端に減った。顔色がどんどん良くなって、いきいきとするようになり、中学二年の春には再婚して紅太郎には新しい父親が出来た。実の父親よりもずっと父親らしい人で、紅太郎が蒼真と同じ高校に通えるようになったのは彼のおかげだった。それでもやっぱり紅太郎にとって彼は〝父親〟ではなく、〝母親の夫〟という立場の人でしかなかった。
 経済的にも家庭的にも余裕が出来ても、紅太郎は自分の居場所はどこにもないような気がした。
 風の音のようなものがずっと耳の奥で聞こえていて、心には虚しさが募った。小学生の頃から感じていた嵐に巻き込まれているような感覚がいつまでも終わらない。それを忘れることができたのは、蒼真と一緒にいるときだけだった。

 蒼真は、紅太郎にとっての〝錨〟であり、〝灯台〟だ。

 激しい雨や風に晒され、そのまま流されていきそうになっても蒼真のことを思い出すとぐっと耐えられるし、自分が進むべき方向がそっちではないと分かる。紅太郎は蒼真のヒーローになりたいと思って行動しているときの自分が好きだったし、想像以上のエネルギーが湧いてくる。変な方向に行きそうになっても、こんな自分を見ても蒼真は自分のことをヒーローだと思ってくれるだろうかと問いかければ、何が自分にとって正しいことなのか自然と答えは出た。英語部の入部届を書いているときもそうだったし、喫茶店のバイトに応募するときもそうだ。
 高校生になっても紅太郎が運動部に入らなかったのは、中学からずっと運動をやっているやつには敵わないと思ったからだ。元々逃げ足だけは速かった蒼真も元陸上部だが、小学校の頃よりもずっと足が速くなっていて紅太郎は何度も追いかけても蒼真に追いつくことが出来なかった。そのとき、紅太郎は愕然とした。珈琲が飲めなかったときと似たような感覚。そしてこの感覚が当てはまるのは蒼真に対してだけではないだろうなと思った。
 挫折を味わいながらも努力することは大切だってことは紅太郎も分かっていた。
 けれども、それはサッカーボールを蹴ったり、バスケットボールをドリブルしたりしなくても挑戦できるのではないかと思った。
 例えば——苦手な珈琲を美味しく淹れられるように努力する、とか。
 そうすれば少なくともひとりは喜ばせることができると紅太郎は思った。
 紅太郎は別に蒼真を人生の中心に据えているわけではない。
 ただ、蒼真と一緒にいれば——蒼真を喜ばせることが出来れば、自分の人生がとても明るくなるような気がしたのだ。
 ずっと降り注いでいる雨に対しても何もせずに濡れるより傘をさすほうがいいとか、雨宿りをしながら適当な話をしていればいつか晴れるとか、ときどきなら一緒に雨に濡れて走り回るのが楽しいとか——そういうことを紅太郎は、蒼真と一緒にいるときに学んだのだ。
 だからこそ、これからもずっと蒼真と一緒に居れば紅太郎はどんなに嵐が続いても生きていけると思っていた。
 けれど、それがどんなに大変なことかも紅太郎は分かっている。


(仁藤はすげーいいやつだ。姉ちゃんにも似てるし、蒼真が気にいるのもわかる)
(仁藤が蒼真を特別に感じるのも自然だ。女子はみんな、蒼真のことが好きだから)


 そこまで考えて紅太郎はフーッと息を吐き出した。
 仁藤も、蒼真も、どちらも失いたくない。
 でもどちらかを選ばないといけない日がまた来るのだろうか。

 「……蒼真」
 「なにぃ〜?」

 ちょっと不貞腐れたように返事をする蒼真に紅太郎は近付いて肩を組む。蒼真は驚いたように片眉を上げたが、嫌がりはしなかった。

 「好きなやついる?」
 「えっ!?」

 その問いかけにあからさまに動揺する蒼真に紅太郎は苦笑した。分かりやす過ぎて困ってしまう。

 「——牙影伝説で」

 紅太郎がそう付け足すと蒼真はあからさまに安堵して、息を吐く。

 「ああ……漫画でね」

 そしてページをパラパラ捲ると小さく唸った蒼真は漫画を伏せてスマホを取り出した。改めてキャラクターの名前で検索すると表示された画像を紅太郎の眼前に突き出す。

 「これっ!」
 「……へぇ?」

 紅太郎は傷ひとつない蒼真のスマホを正面からマジマジと見つめた。そこに表示されているのは真っ赤な髪の強面の男である。中盤で登場するために作品内での活躍はそこそこだが、振る舞いや台詞がカッコイイのでファンも多い。そんな蒼真のチョイスに紅太郎はひとりで勝手に納得すると無言で奥に引っ込んでしまった。置いて行かれた蒼真は困惑し、思わず叫ぶ。

 「え? 理由とか掘り下げないわけ?」
 「きょうみねえ」
 「なんで聞いた!?」

 店内にかかっているレコード音楽がかき消えるぐらいの大声で蒼真が突っ込めば、紅太郎は喉の奥でクククッと笑った。
 そして伸びてきた髪を一房つまみ上げると蒼真には聞こえないぐらいの声で呟いた。

 「今度は赤髪か……」

 金髪ならまだしもこの名前で髪を赤く染めるのはなかなか勇気がいるな……と紅太郎は思った。
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